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歴史

精興社は、大正2年(1913)4月、東京市神田区美土代町(現在の東京都千代田区内神田)に設立された。いまからちょうど百年前。赤レンガの東京駅が完成する前年のことで、当時の社名は「東京活版所」といった。創業者は白井赫太郎という33歳の青年である。社員11名、印刷機械4台。小さな2階建ての1階が工場で、2階は赫太郎と妻イチの住居となっていた。
青梅の山中に生まれそだった赫太郎は、それまで博文館石版部精美堂(現在の共同印刷の前身)という印刷会社で会計兼用度係長をしていたが、同社が平版印刷の専門工場だったため、活版印刷中心の工場を経営したいと独立をはたしたのである。
創業者 白井 赫太郎
創業者 白井赫太郎
創業から10年が過ぎた大正12年(1923)9月、関東大震災で美土代町の工場は焼失するが、その直後の10月頃、赫太郎は社名を精興社と改める。
創業当初、印刷の技術や仕組みについては素人同然だったという赫太郎だが、「誠意のこもった仕事をすれば、必ず良いお得意様がついてくる」という信念で仕事に励んだ結果、しだいに岩波書店など一流出版社との仕事も増えて、社業は伸びていった。
赫太郎は、昭和5年(1930)頃から、「名人」といわれた種字彫刻師の君塚樹石に依頼して、活字の改刻改良を試みる。以後3、4年の歳月を費やして、従来の活字より読みやすく、細めで、しかも力強い、いわゆる「精興社書体」の活字が完成したのである。その一方で、赫太郎は、昭和7年(1932)秋、東京府西多摩郡霞村根ヶ布(現在の東京都青梅市根ヶ布)に分工場を建設し、その工場内に精華学舎を開設した。故郷の少年少女たちを積極的に採用し、「良い仕事をするには、まず知識を広め、人格を磨かなければならない」と考えて、彼らの教育に取り組んだのである。
太平洋戦争のさなか、昭和20年(1945)2月に空襲で東京都神田区錦町三丁目の本社工場を焼失し、いったん精興社は解散する。戦後の一時期は同業他社との共同経営で大化堂と名乗ったが、昭和27年(1952)8月、同社を分割し、精興社として再スタートをはたす。
以後は、戦後の高度経済成長の中で年々順調に業績を伸ばし、昭和39年(1964)には現在の神田事業所の社屋(地下1階、地上6階)が完成している。創業者である赫太郎が亡くなったのは、その翌年1月のことだ。
印刷業界では、活版印刷からしだいにオフセット印刷が主力になっていく中で、昭和45年(1970)9月には埼玉県朝霞市栄町にオフセット専門の朝霞工場を開設している。
平成7年(1995)8月には、活版印刷部門を閉鎖したが、いまもデジタル化されたオープンタイプ「精興社書体」は小社独自の書体として広く国内の本や雑誌に用いられ、多くの出版社や読者から評価を得ているのである。